恋するデザイン図鑑

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カテゴリ:ムービー( 2 )


2009年 01月 12日

無智は幸せを呼ぶか?「英国王 給仕人に乾杯!」

b0135738_732231.jpg年末に岩波ホールで観たグルジア映画「懺悔」について、その感想を書くこともないままに、今度はチェコの「英国王 給仕人に乾杯!」を観て来た。先立ってこの映画紹介を読むと“チェコの映画界を代表する世界的な巨匠イジー・メンツェル”という有名な監督の作品だそうである。(ここでの「世界的な巨匠」の世界的とは、たかがヨーロッパ的、せいぜい大きく見積っても欧米的という意味だと思う)そしてチェコ、共産主義政権というパンフレットの単語からは自然とあのミラン・クンデラの「存在の耐えられない軽さ」が思い浮かべられ、この映画の時代背景もナチス占領時代のを含んでおり、そうなるとこれは、その後のチトー政権、そしてプラハの春を経たスターリン主義による抑圧というチェコの現代史が、激しかった戦争と革命の時代に流され続けた一人の給仕人を通して語られるきわめて格調高い「大・大・大河ドラマ」なのだろうと、勝手に勘違いをし、その意味では、圧倒的なロマンを期待してしまったのだが、そして、そのワクワク感は映画が始まってほんの数分であっさりと破られてしまったのだが、困難の連続だったに違いない自らの歴史をここまで皮相的に、パロディーとして面白おかしく、いわば乾いた涙目で撮るという、監督のその大胆な転換された態度には、予想もしなかった意外性や興味深いものが次第ににじみ出るようで、一概に否定はできない、何かこう、チェコの重みを感じ取ってしまわない訳にはいかなかった。

おそらく、この皮相さは表層に過ぎず、その面白おかしさの底の方にある、厚い地層の下を流れている歴然とした存在に繋がっているのだろう。その「歴然とした存在」とは例えば、ナチスによるチェコ占領に拒否を貫き通し、やがては逮捕されるであろう予感を確信していながら、運命のその日、時計や胸の内ポケットから取り出した財布を同僚に預けた後、自ら連行される、ちょっとかつてのオマー・シャリフが歳をとったような精悍な顔だちの、主人公の上司でもある当時のチェコでも最高級ホテルの主任給仕人。彼の存在がそうなのであり、この視点こそが重要だったのではないか。

なお、この「英国王 給仕人に乾杯!」にはちゃんとした原作があり、しかもそれは欧米ではベストセラーにもなっており、更にあのミラン・クンデラが“われらの今日の最高の書き手”と賞賛を惜しまなかったボフミル・フラバル(1914-1997)というチェコの国民的人気作家の作品なのだそうだ。また「英国王 給仕人に乾杯!」というこの題名も“ソ連であれヒトラーであれ、支配者が絶対に許さない、不埒な抵抗精神を明快に表明した”ものである、と公式サイトにはある。

post-script:実はこの映画、監督の個人的にして普遍的なテーマの一つなのであろう、「天国館」をはじめとして、官能美に満ちあふれた女性達が次々と男どもの遊びの対象として絶えることなく登場するのだが、ここが女性から観ると決して許せない「あまりにもヒドイ女性の描き方」だそうである。そうなると、この映画にはもう一つのテーマが姿を表してくるようだ。つまり、こんな具合に愛のカケラもなく女性達を扱い、交わるブルジョアジーのオヤジ達と、たまたま知り合った女が実は、ナチスにカルト教徒的にかぶれてしまったドイツ系女であり、チェコ国民でありながら、そんな最悪の女と結婚してしまった挙げ句、金儲けのことしか頭の中になかったために、チェコ侵略というドイツの戦争犯罪の片棒をいつの間にか担がされてしまった主人公とでは、どちらが罪深いのか?または加害者なのか?被害者なのか?

ここで関連して考えるのは、
●ヤスパースの戦争犯罪と4つの分類
●小林秀雄の終戦後の発言(ちょっと長いが、引用しておく)
「僕は政治的には無智な一国民として事変に処した。黙って処した。それについて今は何の後悔もしてゐない。大事変が終った時には、必ず若しかくかくだったら事変は起こらなかったろう、事変はこんな風にはならなかったろうという議論が起る。必然といふものに対する人間の復讐だ。はかない復讐だ。この大戦争は一部の人達の無智と野心とから起ったか、それさへなければ起らなかったか。どうも僕にはそんなお目出度い歴史観はもてないよ。僕は歴史の必然性といふものをもっと恐ろしいものと考へてゐる。僕は無智だから反省なぞしない。利巧な奴はたんと反省してみるがいいぢゃないか」(小林秀雄p368江藤淳著)

この映画に関する限り、ブルジョアジーのオヤジ達も、戦後それこそ瞬間芸的につかの間のブルジョアジーに変身した主人公も、同じように反革命として刑務所行きとなる。そしておそらく、かつてのブルジョアジーのオヤジ達は刑務所の中で、彼らの人生をくたばってしまい、主人公は・・・・
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by elnes | 2009-01-12 07:46 | ムービー
2008年 05月 15日

そこに血がある。そこで踊れ。ゼア・ウィル・ビー・ブラッド

映画については、個人的なガイドラインがいつの間にかできてしまい、この厳粛な?ルールに従って映画館に時々行ったり行かなかったりしている状態なので、このページは、実は映画感想文としての自信もまったくなく、一週間以上キーボードをタイプする指も止まったまんまである。これではイカンと、再度パソコンに向かい、まるで出来の悪い生徒のような憂鬱な心境で、一行また一行と進めている所だ。そこで、まず冒頭の個人的なガイドライン(と言うよりは、思い込みの激しい食わず嫌いみたいなもの)について、簡単に述べてみたい。
(1)今も相変わらず、アジア映画が面白い。中国を筆頭に韓国からイランまで、成長を続けるアジアの国々の映画には、30~40年前のかつての日本映画がそうであったような熱気と創造力が伝わって来る。(2)反対にハリウッド映画は、2-3の例外を除き決してコレを観ないことにしている。今以上、頭が悪くならないためにと言うのが主な理由だが、実際に毎度毎度ハデに打たれる広告を見ただけでも、中味のバカバカしさがストレートに伝わってくるレベルのものに、何故みんなが興味を持つのか、さっぱりわからない。そんなハリウッド映画でも例外とは、a)カンヌとかベルリンとかベネチアあたりの映画祭で受賞した場合、b)アラン・パーカー監督作品の場合、c)その他、だ。今回の「ゼア・ウィル・ビー・ブラッド」はそのa)に当ることになる。

この映画、具体的な場面についてのうんちくの前に、制作者はなぜこの映画を作ったのか、見終ってまず考え、そしてとまどっててしまう。物語は1900年前後のアメリカを舞台とした独立系石油発掘業者の激烈な生きざまを描いたものだが、そして前知識として仕入れた批評や広告には、「欲望の果てに・・・」とか「怪物になって主人公の・・・」などと、おどろおどろしいコピーが踊っていたが、制作者は、本当のところ一体何を言いたかったのか。ここでは、これを推理してみたい。

b0135738_820218.jpgまず、この陰気ながらも汗にまみれて仕事一筋の主人公は、決して巷で言われているような「欲望の虜」でも「怪物」でも何でもない。経営者としては極めてまっとうな人物として描かれている。自分の子供をダシに使うことから始まって、ウソまでついてコスト削減を図ったり、競合相手や顧客を騙したり脅迫したりは朝飯前なのだが、こんな企業人として当然の施策を振りまわし、成功を収めたからと言って、何が「欲望の虜」なのか「怪物」なのか。反対に、ここ一番に発揮するピカ一の決断力など豊かな資質を生まれながらに備えた企業経営者の鏡として、シンボリックな存在として描かれていたように僕には思える。確かに、石油をめぐっての赤裸々な駆け引きや騙しあい、何でもアリも常軌を逸した行動を持って、僕達フツーの市民からすると、常識を超えた「怪物」に見えなくもないが、一世紀前の商法も無きに等しい時代の金儲けとはこんなものであり、翻って21世紀の今日は少しはマシかと考えてみると、ちょうど今世界中を賑わしている(Nステの古館に言わせると集団詐欺そのものらしい)サブプライム問題をとってみても、その騙しのテクニックやそのイカガワしさを知るに付け、経済の本質は昔も今もちっとも変わりはないのである。

ところで、この映画にはいつも観客をウンザリさせてくれる、ハリウッド映画には付きモノの男女問題や家族の団欒は削除されており、すべて商売=経済を中心に展開している。子供も友人も日常も全て経済という中心に関わりがある場合に限って顔を出すだけである。ひたすら金儲けだけの、経済がすべての人生を突っ走るこの主人公を登場させて何を訴えたいのか。何故一世紀も前のことを今頃、映画にしたのか。それは単に、昔も今もちっとも変わりはない経済一般なるものを僕達に見せようとしただけではないだろう。ここでの主題は、アメリカを飲み込んでしまい、次は世界中に蔓延してしまいそうな経済原理主義を一つのカタストロフィとして暗示したことにあるのではないか。
そう思ったのは、アメリカ社会が抱えるもう一つのキーワードが、この映画の重要な役回りとして主人公にピッタリくっ付いていたからだ。福音派の牧師がそれである。この若い牧師が唱える、いかにもIQの度合いが低そうな神と悪魔の単純明解二元論と、荒野のまん中にそれだけがポツンとある教会の中で、ホントなのか演技なのか定かではないが、完全にイッてしまったような表情での説教スタイルは、今流行のメガチャーチを十二分に僕達に想起させてくれる。そう、この牧師は、生まれ立てのキリスト教原理主義の象徴なのだろう。しかも経済原理主義とキリスト教原理主義の二つはドルを媒介にした付かず離れずの関係でもあり、キリスト教原理主義はドルが必要とあらば「神はいない」ことをついつい、涙ながらに経済原理主義に告白してしまうような関係でもある。そして、当然のことながら、この二つは最後に血の中で踊ることになる。

最後に。ではこんな絶望的な映画でも、観客に希望のようなものを提示してくれたのだろうか、答えはイエスである。
そんなことはあるはずもないのに、腹立ちまぎれの経済原理主義の父親に「お前は、この俺とは血のつながりもない、捨て子だったのだ」と言われた息子が「捨て子でよかった」と捨てセリフを残して父の元を去る場面がラストシーンの直前に挿入されていたのが、せめて希望があるとすれば、僕達が生き延びる道を、そこで示してくれたのではないだろうか。
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by elnes | 2008-05-15 16:25 | ムービー