恋するデザイン図鑑

elness.exblog.jp
ブログトップ

カテゴリ:ブック( 3 )


2010年 02月 07日

なぜ大岡昇平なのか。

僕の貧弱な本棚を眺めてみて、一目でわかることは、その偏狭で偏屈な読書歴だ。
まず、作家の圧倒的ともいえる偏り方。はるか昔から大江健三郎をその中軸とし、
1番)井上 光晴
2番)立松 和平
3番)中上 健治
4番)大江 健三郎
5番)堀田 善衛
のたったこれだけの、まあ草野球チームも構成できそうにないほどの数不足と
センターから左翼方向は守れても、ライトポジションには誰もいないような
偏りすぎた」陣容でしかない。

しかも、彼らは一人また一人と死んでしまったり、立松和平のように、彼が避けては
通れなかったであろう、連合赤軍を書いた渾身の一冊『光の雨』を最後に、
これはなんとなく予測できたことだが、宗教的な領域に移動してしまったりで、
僕の本棚はここん処、ほとんど埃まみれの状態が続いていた。

もちろん、柄谷行人に触手を延ばしたりはしても、その難解さが
なかなか毎日でも読んでいたい!という気にしてくれる本に巡り合えないのだ。

そして2年前に父が死んだ後、「次は僕たちの番だ」と初めて死というものを身近な
問題として考え始めた時分、たまたま膨大なビデオテープのコレクションを永久保存と
そうでないものに仕分け作業中、その中から埴谷雄高がNHK教育で5回連続で
しゃべった「死霊の世界」が出てくる。

http://www.youtube.com/watch?v=dI-GpfSqq2E&feature=related

この思わぬ宝物みたいな映像を観た後、死ぬまでに読む作家の一つに『埴谷雄高作品集』
(全16巻・河出書房新社・これは1971年発売なので、埴谷雄高のすべてを楽しめるわけでは
なかったが、彼の死後に出た筑摩書房版は僕には高すぎた)を追加する。これまでは、
その『死霊』も中途で投げ出し、政治論文も文学批評もつまみ食いしかしてこなかった
埴谷雄高の全体を読んでみたいと思った。

そして、埴谷雄高を中心とする戦後文学および文学者の重厚なつながりを今更ながら
発見することになる。そこには椎名麟三、梅崎春生、野間宏、武田泰淳、中野重治たちが
居並び、もう一度、戦後文学者の作品を読んでみることを僕に強制する。

埴谷雄高に言わせると、戦後の廃墟の中をまるでパルチザンの戦士のように、
どこからともなく現れたこれら一群の者たちは、そのうち、埴谷の前から消えてゆき、
気がつくと大岡昇平と二人きりになっていることを埴谷は発見する。
そしてあわてるようにして二人して残したのが『二つの同時代史』(岩波書店)という
対談本である。
b0135738_1771956.jpg
戦中から戦後にかけて全く別々の道を
歩んできた二人だが、戦後という時代が
彼らを引き合わせることになる。



それまでの大岡昇平は僕にとって、小林秀雄とつながる人という単純な決めつけに近い
イメージしかなかったのが、『二つの同時代史』で一変する。まず、『野火』、『俘虜記』を読み、
そして『レイテ戦記』に入る。この頃になると、1982年に岩波書店から出された
『大岡昇平集』(全18巻)を古本屋から手に入れる。

同じ戦中派でも大岡は近代文学派の人達とは異なり、34歳で赤紙をもらったこの元補充兵は
「私はこの負け戦が貧しい日本の資本家の自暴自棄と、旧弊な軍人の虚栄心から始められたと
思っていた。そのために私が犠牲になるのは馬鹿げていたが、非力な私が彼らを止めるため
何もすることができなかった以上止むを得ない。」(『大岡昇平集第2巻出征』より)と南方へ
送られることが分かった時に死を覚悟する。

この妻も子供も持ってしまった34歳の二等兵が、国家に死を強制されようとするちょうど同じ頃、
時代の空気に純粋培養されてしまった、19歳の熱烈皇国青年がいた。
彼の周辺の学友の多くが自ら兵士になることを志願するその状況を横目に見ながら、
船大工だった父親に「軍隊は、そんなにいいもんじゃない・・・」と言わせることで、
自分だけは軍隊に行かなくてもいい言質を、かつてはその束縛から自由になろうとした
父親から取り付けるというサル芝居を打ったことで有名な吉本隆明、がその人である。

(続く)


[PR]

by elnes | 2010-02-07 22:32 | ブック
2009年 02月 25日

村上春樹の壁と卵

先日エルサレム賞を受賞した村上春樹の、受賞時のスピーチが好意的に受け取られているようだが、そこに胡散臭さを感じたのは、僕だけだろうか。という思いが何か油濃いものを食べた後のように、不快な気持ちにさせていたのだが、今日の新聞の文芸欄に、斎藤美奈子さんが、その壁と卵の話題を持ち出して、「卵の側に立つ」村上に、「こういう場合に『自分は壁の側に立つ』と表明する人はいるだろうか・・・・作家はもちろん政治家だって「卵の側に立つ」というのではないか。卵の比喩はかっこいい。総論というのはなべてかっこいいものである」とバッサリ切り捨ててくれていた。

おそらく「自分は卵の側に立つ」と表明してみたところで、かっこいいだけで敵には何の動揺も与えはしないだろう。屁のつっぱりにもならないはずだ。そしてこの卵は無視されるか、せいぜいかっこうの標的として、いともたやすく銃弾で打ち砕かれるのを待つだけなのだ。この村上春樹の敵に許される範囲内での、その結果もちろん本人はウスウス自覚していたのかも知れない自己満足的な言葉のいやらしさが、僕を不快にする。もし、のこのこエルサレムまで出かけていって、壇上で敵とにこやかに握手をしてまでも、文学者として許されるスピーチというものが仮にあるとすれば、「僕は壁を破壊する卵としてある」ぐらいのことを言うか、それ以上でなければならない。

エルサレム賞は「社会における個人の自由」に貢献した文学者に隔年で贈られるものらしいのだが、住宅街に砲弾を次々と打ち込み、わずか数週間で千人を越えるパレスチナ人を、ただそこに居るというだけの理由で殺戮しておきながら、どこをどうひねり出すと「社会における個人の自由」などという言葉が出てくるのだろうか。想像力を満ち合わせているならば、これはもう、唾棄すべき対象以外の何ものでもないだろう。斎藤美奈子さんもちゃんと付け加えている。

(それでもイスラエルのガザ攻撃に反対ならば受賞を拒否すべきだったと私は思っているけどね)

村上春樹は、敵に許されるその程度の反対を選択したのだろう。でも、そんなものは言葉の正確な意味で反対といえるのか。
[PR]

by elnes | 2009-02-25 22:48 | ブック
2008年 04月 22日

人はどう生きるのかを突きつけられる、『存在の耐えられない軽さ』

b0135738_2150571.jpg池澤夏樹さん個人編集による、装丁を含め新鮮なイメージのする世界文学全集(河出書房新社)の第2回配本がミラン・クンデラのこの物語「存在の耐えられない軽さ」だ。
まず何よりも、西永良成さんの翻訳が素晴らしい。クンデラがこの物語にかける実験的とも言える精神世界に、濃密で独特な、アートディレクター的に言うとオリジナリティ豊かな装飾を施すことに圧倒的に成功している。

ところで、このチェコスロバキアの物語を読み続けるうちに一本のギリシャ映画を思い出してしまう。誰か覚えているだろうか、若き日の池澤夏樹さんの字幕によるテオ・アンゲロプロスの「旅芸人の記録」。どちらも、政治が個人の生活に絶対的に介入する時代に、人はどう生き延びるのか━おまえは、一体全体どっちに転ぶのだ、と僕達の胸のあたりに荒々しく手を突っ込んでくる。そして僕達は、否応なく主人公と一緒にその過酷な、もうひとつの同時代を生きて行くことになる。

社会主義の仮面をかぶったスターリン主義体制下の人々が分断を強制される中で、濃厚で満たされた人間関係を持続することは可能か、人は何を失い続け、最後に残ったものがあるとしたらそれは何か。二組の男女の生き様から、お互いを尊重し協調していくことの一瞬の幸せと永遠の難しさ、この相反する二つを不安定なヤジロベエの両極の重しにして、物語は結末に向かって進んでいく。
[PR]

by elnes | 2008-04-22 21:55 | ブック